大判例

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東京高等裁判所 平成3年(行ケ)180号 判決

大阪市阿倍野区長池町22番22号

原告

シャープ株式会社

同代表者代表取締役

辻晴雄

同訴訟代理人弁理士

川口義雄

船山武

東京都千代田区霞が関3丁目4番3号

被告

特許庁長官 高島章

同指定代理人

犬飼宏

奥村寿一

関口博

橘昭成

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第1  当事者が求めた裁判

1  原告

「特許庁が昭和62年審判第5914号事件について平成3年5月9日にした審決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決

2  被告

主文と同旨の判決

第2  請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、名称を「磁気光学記憶素子」とする発明(以下「本願発明」という。)について、昭和56年7月2日に特許出願(昭和56年特許願第104072号、以下「本願」という。)をし、同56年12月29日及び同61年12月26日に手続補正をしたところ、同62年2月2日に拒絶査定を受けたので、同年4月9日にこれに対する審判を請求した。

特許庁は、同請求を、昭和62年審判第5914号事件として審理したが、平成3年5月9日に本件審判の請求は成り立たない旨の審決をし、その謄本は、同年7月1日に原告に送達された。

2  本願発明の要旨(特許請求の範囲記載のとおり)

膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜を記憶媒体とし、

該記憶媒体の膜厚を100A乃至250Aとし、

該記憶媒体の裏面に反射膜を設けたことを特徴とする磁気光学記憶素子。

3  審決の理由の要点

(1)  本願発明の要旨は、前項記載のとおりのものと認める。

(2)  引用例の記載

〈1〉 特公昭40-2619号公報(以下「引用例1」という。)には、カー効果を利用して情報の記録、再生を行なう、磁性薄膜を記憶媒体とした磁気光学記憶素子において、見掛け上のカー回転角を増大させるため、記憶媒体の裏面に反射膜を設けたものが記載されている。

また、引用例1には、反射膜を設けた上記磁気光学記憶素子の見掛け上のカー回転角の大きさが、磁性薄膜の厚さに依存することが記載され、上記厚さを0~700Aの範囲で変化させたとき、その間に上記回転角の極大をもたらす厚さの存在することが記載されている。

〈2〉 特開昭52-31703号公報(以下「引用例2」という。)には、カー効果を利用して情報の記録、再生を行なう磁気光学記憶素子の記憶媒体の材質として、膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜を用いることが記載されている。

(3)  対比

〈1〉 本願発明と引用例1記載の発明とは、磁性薄膜を記憶媒体とし、該記憶媒体の裏面に反射膜を設けた磁気光学記憶素子の点で一致する。

〈2〉 本願発明では、「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜」を磁性薄膜としており(相違点1)、また、その非晶質薄膜の膜厚を100A乃至250Aに設定している(相違点2)が、引用例1には、それらについての記載がなく、この点で両者は相違している。

(4)  相違点についての判断

カー効果を利用する磁気光学記憶素子の磁性薄膜として「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜」を用いることは引用例2に記載されている。

上記非晶質薄膜を用いる磁気光学記憶素子においても、見掛け上のカー回転角の増大を図ることは、信号対雑音比を改善する上で必要なことであるから、上記非晶質薄膜を用いた磁気光学記憶素子に対して、記憶媒体の裏面に反射膜を設ける、引用例1記載の構成を適用することは当然考えられることと認められる。

また、その適用に当たって、磁性薄膜の膜厚を、見掛け上のカー回転角を大きくし得る範囲に設定する必要があることは引用例1が教えている。

本願発明において設定している非晶質薄膜の厚さ100A乃至250Aは、引用例1の場合と同様に、上記回転角の極大をもたらす磁性薄膜の厚さを調べるために0~700Aの間で膜厚を変化させたときに、見出し得る厚さであるから、上記厚さの設定に難しさがあったものとは認められない。

(5)  まとめ

以上のとおりであるから、本願発明は引用例1及び2に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明することができたものと認められるので、特許法29条2項の規定により特許を受けることはできない。

4  審決の理由の要点の認否

(2) (引用例の記載)のうち、引用例1の記載は否認し、引用例2の記載は、カー効果を利用して情報の記録を行なう旨の記載は否認し、その余は認め、(3)(対比)のうち、〈1〉(一致点)は否認し、〈2〉(相違点)は認め、(4)(相違点についての判断)のうち、「カー効果を利用する磁気光学記憶素子の磁性薄膜として、『膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜』を用いることは引用例2に記載されている」ことは認め、その余は否認し、(5)(まとめ)は争う。

5  審決の取消事由

(1)  判断遺脱(取消事由1)

審決は、本願発明と引用例1記載の発明との相違点について判断していない。

審決摘示の本願発明と引用例1記載の発明との相違点は、(1)膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜を磁性薄膜とする点(相違点1)及び(2)非晶質薄膜の膜厚を「100A乃至250A」に設定している点(相違点2)である。

相違点について判断したというためには、比較すべき主引用例である引用例1記載の発明の構成に補助引用例である引用例2記載の発明の構成を適用することが容易であるか否かを判断すべきである。しかるに、審決は、相違点1の判断において、引用例2記載の発明の「非晶質薄膜を用いた磁気光学記憶素子」に引用例1記載の発明の「記憶媒体の裏面に反射膜を設ける」構成を適用することは容易であると判断し、引用例2を主引用例として、引用例1を補助引用例として判断したものであるから、相違点1について判断していない。また、審決は、相違点2の判断において、引用例2記載の発明の「非晶質薄膜を用いた磁気光学記憶素子」に引用例1記載の発明の「記憶媒体の裏面に反射膜を設ける」構成を適用するに当たって、「磁性薄膜の膜厚を、見掛け上のカー回転角を大きくし得る範囲に設定し得る必要があることは引用例1が教えている。」、「本願発明において設定している非晶質薄膜の厚さ100A乃至250Aは、引用例1の場合と同様に見出し得る厚さである」から、厚さの設定は容易であると判断したが、これもまた引用例2を主引用例として、引用例1を補助引用例として判断したものであるから、相違点2についても判断していない。

(2)  相違点1についての判断の誤り(取消事由2)

〈1〉 引用例1記載の発明では、磁性薄膜は鉄-コバルト膜、鉄膜、コバルト膜、ニッケル膜であって、それらは希土類-遷移金属に属するものではなく、非晶質薄膜でもない。

〈2〉 引用例1記載の発明は、磁化モードは面内磁化であって、垂直磁化ではない。すなわち、

(a) 引用例1の「磁性層14は蒸着技術によって銀基質13上に沈着させた磁性材料の薄膜でありかつその中の磁区が標準磁気記録頭部によって横あるいは縦方向に向けられるような性質を持つ」(甲第5号証1頁右欄下から4行ないし末行)旨の記載は、磁気記録頭部すなわち磁気ヘッドを用いて(かつ光を用いることなく)、しかも磁化の方向を磁性膜の膜面に平行にして記録することを開示するものであるから、上記記載中の「横あるいは縦方向」とは、面内磁化を指すものである。

(b) 引用例1の特許出願の優先権主張の基礎となった米国特許出願第111231号の出願書類(甲第9号証)によると「磁区が(標準磁気記録頭部によって)横あるいは縦方向に向けられ」の記載は

the magnetic domains therein may be oriented in a transverse or longitudinal direction

の訳であるところ、これらの字句は横方向磁化あるいは縦方向磁化を指称するものであって、これらはいずれも面内磁化である。なお、垂直磁化はperpendicular magnetizationである。

(c) 引用例1の第1図では、光源からの入射光はレンズ、偏光子Pを通過した後に、磁性構造すなわち磁性材料薄膜Sを斜めに入射し、斜めに出射していることが見て取れる。このことは、磁性材料薄膜Sの磁化モードが面内磁化であることを意味している。垂直磁化膜の読出しに光を斜めに入射し、斜めに出射することは、小さなカー回転角の検出という点からは信号の検出が事実上不可能であって、実際にはあり得ない。

(d) 引用例1記載の発明の鉄-コバルト、鉄、コバルト、ニッケルの薄膜では、垂直磁化膜の実現は技術的に不可能であるから、引用例1記載の発明において、垂直磁化膜の構成を採用することは容易ではない。

〈3〉 審決は、引用例1及び2には、カー効果を利用して情報の記録を行なう磁気光学記憶素子が記載されていると認定したが、誤りである。引用例1及び2には、カー効果を利用して情報の記録を行なうことは記載されていない。特に、引用例1においては、情報の記録については、磁気記録頭部、すなわち磁気ヘッドを用いており、光の使用は行なっていない。

〈4〉 したがって、引用例1記載の発明の「磁性薄膜を記憶媒体とし、該記憶媒体の裏面に反射膜を設けた磁気光学記憶素子」に、引用例2に記載された発明の「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜」の構成を適用することは、当業者にとって容易ではない。

(3)  相違点2についての判断の誤り(取消事由3)

〈1〉 審決は、引用例1には、反射膜を設けた上記磁気光学記憶素子の見掛け上のカー回転角の大きさが、磁性薄膜の厚さに依存することが記載され、上記厚さを0~700Aの範囲で変化させたとき、その間に上記回転角の極大をもたらす厚さの存在することが記載されていると認定した。しかし、引用例1にはかかる記載はない。

引用例1には、鉄-コバルト膜については、膜厚が約350Aの厚さにおいて、カー回転角が極大になることは記載されており、鉄膜については、図面第4図から400Aの厚さのところにカー回転角の極大値があることが読み取れる。さらに、コバルト及びニッケル膜の磁気光学回転については第5及び第6図からそれぞれ350Aの厚さのところにカー回転角の極大値があることが読み取れる。

しかしながら、引用例1には、鉄-コバルト膜、鉄膜、コバルト膜、ニッケル膜について、少なくとも0A~350A未満の間及び400A超~700Aの間にカー回転角の極大をもたらす厚さが存在することは記載されていない。

さらに、引用例1には、最適の厚さの磁性層に対して得られるフイガーオブメリットは入射光に対して不透明である600A以上の厚さの層について得られる値よりも大きい旨の記載があり、かかる記載によれば、600A以上の厚さの層に対して磁性層は不透明であるから、カー回転角の極大がもたらされることは不可能である。

なお、審決が、非晶質薄膜の膜厚を100A~250Aに設定している点を相違点として挙げたことは、引用例1に非晶質薄膜の膜厚を100A~250Aに設定する点は記載されていないことを認めたことになり、審決の引用例1に磁性薄膜の厚さを0~700Aの範囲で変化させたとき、その間に上記回転角の極大をもたらす厚さの存在することが記載されているとの認定と矛盾することになる。

したがって、審決の引用例1には、反射膜を設けた磁気光学記憶素子の磁性薄膜の厚さを0~700Aの範囲で変化させたとき、その間にカー回転角の極大をもたらす厚さの存在することが記載されているとの認定は誤りである。

〈2〉 引用例2では、膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜の膜厚を500Aより小さくすることを明確に排除する記載がある(甲第6号証2頁右下欄6行ないし8行)。

そうすると、引用例2に記載された非晶質薄膜は、本願発明の「記憶媒体の膜厚を100A乃至250A」とした膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜とは別異の技術であるから、引用例2記載の発明の構成から、本願発明の「記憶媒体の膜厚を100A乃至250A」とする構成に想到することはない。

〈3〉 上記のとおり、審決は、引用例1の記載内容を誤認し、引用例2の記載の技術的評価を誤った結果、相違点2について、本願発明は引用例1及び2に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明することができたと判断したものである。

(4)  したがって、本願発明は、引用例1及び2に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明することができたと判断した審決の判断は誤りである。

6  被告の主張に対する反論

(1)  取消事由2について

〈1〉 被告は、引用例2記載の磁性薄膜においても、カー回転角の増大を図りS/Nを改善すべき技術課題を有しているものであることは自明であると主張する。

しかしながら、引用例2には、カー効果を利用して情報の再生を行なうとの記載はあるが、カー回転角の増大を図るという課題についての記載はない。すなわち、引用例2記載の発明の技術的課題は、膜面と垂直な方向に磁化容易軸を有し、室温において、大きな保磁力を有するとともに、所望の形状の磁区を書き込むことが可能であり、任意の基体上に作製可能であり、そして幅広い組成範囲に亘って大きな保磁力を有する磁性薄膜記録媒体を提供することであり、課題解決の構成はTbとFeの非晶質合金薄膜である。

被告の引用する甲第2号証の当該箇所は、IEEE Trans on Mag vol-16 No5 1980 p1194を引用するものであるが、上記IEEE Trans on Magは証拠として提出されていない。

乙第6号証では、希土類-遷移金属の合金にビスマスを添加して合金の組成に改良を加えることによって、また乙第7号証では特定の組成のものであるGdCo、GdFeを用いることによって大きなカー回転角を得ている。

したがって、引用例2記載の発明の技術的課題及び構成は乙第6、第7号証に記載されたものと顕著に相違しているから、引用例2に乙第6、第7号証を結び付けることは無理であり、引用例2に記載された磁性薄膜においても、カー回転角の増大を図りS/Nを改善すべき技術的課題を有しているとの被告の主張は失当である。

しかも、引用例1記載の発明では、磁性層の材料は面内磁化の元素鉄、元素コバルト、元素ニッケル及び鉄-コバルト合金に限定されていて、磁性層の材料を別に求めること、及びその際の課題は何かということは記載されていないから、引用例2記載の磁性薄膜を引用例1記載の発明における磁性薄膜として適用することはできない。

〈2〉 被告は、引用例1記載の発明における磁性薄膜の磁化モードが面内磁化であったとしても、審決の相違点1についての判断に何ら影響を及ぼさないと主張するが、引用例1では、カー回転角増加の基となる干渉について厳密性を避けて平易に説明しているが、このような説明では予測性に欠けて応用がきかないし、垂直磁化膜については言及された箇所はないうえ、垂直磁化膜という別異の場合についてはその解析のモデルも不明であるから、このようなところに同一の物理現象が成り立つということについての予測性がない。被告は、引用例1に記載されたカー回転角の増加技術は、磁性膜に用いられる磁性材料や磁化方向を問わず適用できる技術であると主張するが、そのことが本願出願前の技術水準であることの証明はない。

(2)  取消事由3について

〈1〉 乙第2号証に記載のものは、膜面に垂直の方向に磁気異方性を有する複数の層より成る非晶質磁性薄膜を磁気記憶媒体として用いるものに係り、その複数の層での隣り合う2層間の境界面の近傍では2層間の相互間で応力を及ぼし合っており(2頁右下欄8行ないし11行、3頁右上欄1行ないし6行)、それらを分離することはできず、磁気記憶媒体を構成する全体の磁性薄膜の膜厚は500Aをはるかに超える1600Aという厚いものであって、薄い層の膜厚が200Aのものを分離して記憶媒体として用いることの記載はなく、分離した場合にその薄い層がどのような磁化特性を有することになるかの記載もない。そして、読出しのために特に薄い層を記憶媒体として効果的に使用すること、さらにその薄い層を分離して単独に記憶媒体として使用することについても記載がない。

〈2〉 本願明細書の特許請求の範囲の記載では、希土類-遷移金属非晶質薄膜の膜厚を100A~250Aに特定しており、その技術的意義は一義的に明らかであるから、本願明細書の発明の詳細な説明の項の記載及び図面を参酌して、本願発明において、希土類-遷移金属非晶質薄膜の膜厚を100A~250Aに特定した点に格別の意義は存在しないとの被告の主張は失当である。

第3  請求の原因に対する認否及び被告の主張

1  請求の原因1ないし3は認め、同5の主張は争う。審決の認定判断は正当であり、原告ら主張の違法はない。

2  被告の主張

(1)  取消事由1(判断の遺脱)について

審決は、相違点1及び2の判断において、補助引用例である引用例2によって公知の事項を示し、この公知の事項を主引用例である引用例1記載の発明に適用することが容易であると判断しているのであるから、審決の相違点についての判断に遺脱はない。

〈1〉 相違点1の判断について

審決では、磁気光学記憶素子の磁性薄膜として、膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜を用いることは、引用例2に記載されていると述べた後、引用例2記載の非晶質薄膜を用いる磁気光学記憶素子においても、見掛け上のカー回転角の増大を図らなければならないという要求があって、その非晶質薄膜(磁性薄膜)の裏面に反射膜を設けることが考えられると述べ、さらに、引用例2記載の非晶質薄膜を引用例1の磁気光学記憶素子に適用することは当然考えられることであると述べている。

すなわち、審決では、相違点1の容易性の判断において、先ず、磁性薄膜として、「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜」を用いることが、引用例2に基づいて公知であることを述べ、次に、引用例2の磁性薄膜は、引用例1の磁気光学記憶素子における磁性薄膜(磁性層)と同じ技術課題を有しており、しかも、この技術課題を解決するために、磁性薄膜の裏面に反射膜を設けるという同じ構成(解決手段)を採り得るものであるから、引用例2の磁性薄膜、すなわち、「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜」を、引用例1記載の磁気光学記憶素子の磁性薄膜として適用することは、容易にできたことであると判断している。

したがって、審決の相違点1についての判断に遺脱はない。

〈2〉 相違点2の判断について

審決では、引用例2記載の磁性薄膜を引用例1記載の磁気光学記憶素子の磁性薄膜として適用するに当たって、その磁性薄膜の膜厚をカー回転角が大きくなる範囲に設定することは、引用例1の記載から明らかであり、その膜厚の範囲も容易に見出すことができた値であると述べている。

すなわち、前記〈1〉で述べたように、審決は、引用例2記載の磁性薄膜を引用例1記載の磁気光学記憶素子の磁性薄膜として適用することが容易にできたことであると判断した後、その適用に当たって、磁性薄膜の膜厚を100A~250Aに設定することは、引用例1に記載された事項に基づいて容易にできたことであると判断しているから、相違点2についての審決の判断に遺脱はない。

(2)  取消事由2(相違点1についての判断の誤り)について

〈1〉 引用例1記載の発明における磁性薄膜は、希土類-遷移金属非晶質薄膜でないが、引用例1記載の発明における磁性薄膜として、引用例2に記載された希土類-遷移金属非晶質薄膜を適用することは、当業者が容易に想到することである。すなわち、

(a) 引用例2(甲第6号証)には、「本発明の磁性薄膜記憶媒体は、膜面と垂直な方向に一軸性磁気異方性を有し、その方向が磁化容易軸になるようにしたTbとFeの非晶質合金薄膜である。」(2頁左下欄15行ないし18行)と記載され、また「本発明の磁性薄膜記憶媒体は膜面に垂直な方向に磁化容易軸を有し、…所望の形状の反転磁区の状態で書き込みを行ない情報を記憶させることができる。従って光ビームを用いて書き込み、カー効果を利用して読み出しを行う。」(3頁右下欄12行ないし18行)と記載されている。

上記記載によれば、引用例2記載の磁性薄膜は、希土類-遷移金属非晶質薄膜であって、カー効果を利用して情報の再生を行ない得るものであることが明らかであるから、引用例1記載の発明における磁性薄膜と、カー効果を利用して情報の再生を行なうという点において共通するものである。

(b) 本願明細書の、「本発明は上記した、記憶した情報を消去し新しい情報を再記憶出来る素子として期待される、記憶材料として希土類-遷移金属の非晶質薄膜を用いた磁気光学記憶素子に関するものである。次に磁気光学記憶素子の従来の問題点について説明する。磁気光学記憶素子は上記の利点を有する一方で再生信号レベルが低いという欠点がある。特に磁気光学記憶素子からの反射光を利用して情報の再生を行う所謂カー効果再生方式においてはカー回転角が小さいため信号対雑音比(S/N)を高める事が困難であった。その為従来では記憶媒体である磁性材料を改良したり或いは記憶媒体上にSiOやSiO2の誘電体薄膜を形成したりしてカー回転角を高める工夫がなされていた。後者の例として…」(甲第2号証2頁4行ないし3頁2行)との記載、並びに乙第6号証の2頁右下欄1行ないし10行、同第7号証の117頁右欄6行ないし23行の各記載によれば、希土類-遷移金属からなる非晶質の磁性膜で生ずるカー効果を利用して情報の再生を行なう磁気光学記憶素子においては、カー回転角が小さいため、情報再生信号の信号対雑音比(S/N)が小さいという問題点を有しており、カー回転角の増大を図ってS/Nを改善すべき技術課題を有していることは、当該技術分野において、明らかなことである。

してみれば、引用例2記載の磁性薄膜においても、カー回転角の増大を図りS/Nを改善すべき技術課題を有しているものであることは自明である。

(c) したがって、引用例2に記載された希土類-遷移金属からなる非晶質の磁性薄膜は、カー効果を利用して情報の再生を行なうものであること、及び、カー回転角の増大を図りS/Nを改善すべき技術課題を有するものであることにおいて、引用例1記載の発明における磁性薄膜(磁性層)と共通しているから、引用例2に開示された磁性薄膜を引用例1記載の発明における磁性薄膜として適用することは、当業者が容易に想到できたことである。

〈2〉 原告は、引用例1記載の発明では磁性薄膜が垂直磁化でないと主張するが、同発明における磁性薄膜の磁化モードが面内磁化であったとしても、審決の相違点1についての判断に何ら影響を及ぼさない。すなわち、

(a) 引用例1(甲第5号証)の1頁右欄10行ないし23行、2頁左欄1行ないし11行の記載によれば、引用例1に記載された反射光路の形成によるカー回転角の増加技術は、表面反射光にカー回転角が生じる一般的な磁性材料の層(磁性膜)を対象として、その厚みを、透過光が反射光路を経て磁性膜表面に至るまでに吸収されてしまわないよう(不透明とならないよう)、また透過光の磁性膜表面での反射光に対する位相差が適切なものとなるよう設定する(すなわち、磁性膜内での透過光の光路長増加の程度を設定する)ことにより、反射光と透過光との結合(干渉)及びこれによるカー回転角の増加を達成し得るものであり、その場合、特に磁性膜に用いられる磁性材料や磁化方向が特定のものであることを要しないことは、上記1頁右欄10行ないし23行の記載から明らかである。

(b) そして、引用例1の1頁右欄42行ないし末行の記載、及び、磁性膜に対する光の入射方向を斜めにした構成が図示されている第1図、第2図は、引用例1記載の磁気光学記憶素子の作動の基本原理を説明するための一実施例を示したにすぎないものであり、磁気光学記憶素子における光の入射方向や磁性膜の磁化方向について規定したものとは解されない。また、引用例1には磁性膜に用いられる磁性材料として鉄-コバルトの合金、鉄、コバルト、ニッケルが挙げられているが、これらは実施例として例示されているにすぎない。なお、引用例1の特許出願の優先権主張の基礎となった米国特許出願書類の磁化モードに関する記載は引用例1の明細書に記載されていないのであるから、原告の主張を裏付けるものとはならない。

上記(a)のとおり、引用例1に記載された磁気光学記憶素子におけるカー回転角の増加技術は磁性膜の磁化方向を問わず適用できる技術であるから、引用例1において、一実施例として記載されている面内磁化に関することは、引用例2に開示された磁性薄膜を適用するときの容易性の判断に影響するものではない。

〈3〉 原告は、審決において、引用例1及び2には、カー効果を利用して情報の記録を行なう磁気光学記憶素子が記載されていると認定した点が誤りであると主張するが、カー効果は磁気光学記憶素子から情報を再生するとき利用し得る現象であって、情報の記録を行なうときには利用できないことは、当該技術分野では周知の事項であることは、甲第6号証(引用例2)の記載(1頁右下欄3行ないし10行、3頁左下欄5行ないし9行、3頁右下欄17行ないし18行)、同第15号証の記載(55頁左欄5行ないし8行)、乙第4号証の記載(105頁右欄2行ないし6行、同頁右欄末行ないし106頁左欄1行、同頁右欄24行ないし29行)、同第5号証の記載(1頁右下欄5行ないし12行)、同第6号証の記載(3頁右下欄11行ないし4頁左上欄7行)から明らかであるから、審決の相違点1についての判断に何ら影響を及ぼすものではない。

(3)  取消事由3(相違点2についての判断の誤り)について

〈1〉 引用例1(甲第5号証)の、1頁右欄10行ないし23行、2頁左欄1行ないし11行、2頁左欄23行ないし34行の記載、そして、第3図ないし第6図に磁性薄膜の材料として鉄-コバルト、鉄、コバルト、及びニッケルを用いた各実施例の磁気光学的性質が示されている(第3図には、鉄-コバルトからなる磁性薄膜の膜厚が、0A~500Aの範囲において変化したときのカー回転φ1、φ11、レフレクタンスR1、R11、フィガーオブメリットFMが示され、約350Aの膜厚においてカー回転が極大になっており、第4図には、鉄からなる磁性薄膜の膜厚が、0A~700Aの範囲において変化したときのカー回転φ1、φ11、レフレクタンスR1、R11、が示され、約400Aの膜厚においてカー回転が極大になっており、また第5図及び第6図には、コバルト又はニッケルからなる磁性薄膜の膜厚が、0A~700Aの範囲において変化したときのカー回転φ1、φ11、レフレクタンスR1、R11が示され、約350Aの膜厚においてカー回転が極大になっている。これらの点は2頁右欄2行ないし3頁左欄3行にも記載されている。)ことから、引用例1には、反射膜上に置かれた磁性薄膜の厚さは、該磁性薄膜が入射光に対して不透明でなく、入射光の一部分がこの磁性薄膜を通過して反射膜から反射されて初めに反射した光と結合するように選ばれること、磁性薄膜の厚さの変化が、磁性材料によって反射光に加えられる磁気光学的成分の変化をもたらし、かつ反射光成分B20と第2の反射光成分B21との干渉を生じること、及び、磁性薄膜の厚さは実物毎に最適のフィガーオブメリットを得る適当な値になるように選ばれること、及び、磁性薄膜の材料として鉄-コバルト、鉄、コバルト、又はニッケルを用いた各実施例において、膜厚が0A~500A又は0A~700Aの範囲において変化したとき、約350A又は400Aの膜厚においてカー回転が極大になることが記載されているといえる。

したがって、審決の、「引用例1には、反射膜を設けた上記磁気光学記憶素子の見掛け上のカー回転角の大きさが、磁性薄膜の厚さに依存することが記載され、上記厚さを0~700Aの範囲で変化させたとき、その間に上記回転角の極大をもたらす厚さの存在することが記載されている」との認定に誤りはない。

〈2〉 引用例2に記載された非晶質薄膜と本願の非晶質薄膜とは別異の技術ではない。すなわち、

(a) 甲第6号証(引用例2)の2頁右下欄3行ないし8行の記載、同第14号証の14頁右欄4行ないし8行の記載、同第15号証の46頁右欄8行ないし10行の記載、乙第3号証の3頁左下欄15行ないし右下欄15行の記載に示された、希土類と遷移金属からなる非晶質の磁性薄膜の例では、垂直磁化膜であるための所要膜厚は、500A以上の値が示されているが、これらの所要膜厚は、Gd-Fe膜、Tb-Fe膜、Gd-Co膜の特定材料よりなる磁性膜についてのものであること、所要膜厚の下限は、Gd-Fe膜については500A(甲第14号証)又は1000A(乙第3号証)、Tb-Fe膜については500A(甲第6号証)、Gd-Co膜については2000A(甲第15号証)とされていることからも明らかなように、材料の組合せに応じて異なり、一義的に決まらないものであることを考えると、引用例2に記載された例のみをもって、本願出願当時においても、磁性膜(希土類と遷移金属からなる非晶質の磁性薄膜)が垂直磁気異方性を有するための所要膜厚は、500A以上であると即断することはできない。

(b) 乙第2号証には、希土類-遷移金属(Gd-Fe)の非晶質薄膜からなり膜面に垂直な磁化容易軸を有する複数の層(磁性膜)を備えた磁気記録媒体が開示されている(2頁右上欄17行ないし左下欄4行、3頁右上欄8行ないし15行、同頁右下欄5行ないし9行、4頁右上欄5行ないし左下欄2行参照。)が、特に第2ないし第6図とその説明をみれば、前記複数の層の膜厚を異ならせることが記載されており、その中の第3図及び第6図のものについての記載(4頁右上欄13行ないし19行)から、薄い層の膜厚が200Aであることが明らかであるから、膜面を200A程度に薄くすることは、本願出願当時において、公知の事項である。

(c) したがって、希土類-遷移金属非晶質薄膜が膜面に垂直な磁化容易軸を有するための所要膜厚は、材料の組合せに応じて異なり一義的には決まらないものであり、また膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜の膜厚を500Aよりかなり薄い200A程度にすることは、本願出願当時既に知られており、しかも、本願発明における磁性薄膜は、材料の組合せが特定されているわけでもなく、「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜」である点で引用例2に記載された磁性薄膜と共通するものであるから、その膜厚の違いだけをもって、引用例2に記載された磁性薄膜と本願発明における磁性薄膜とが別異の技術であるということはできない。

〈3〉 膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜の膜厚を100A~250Aに設定することは容易である。すなわち、

(a) 本願明細書(甲第2号証)の4頁16行ないし19行、4頁末行ないし6頁4行の記載をみれば、本願発明のカー回転角の増大率は、レーザ光の波長、非晶質薄膜の種類、及び、非晶質薄膜の膜厚によって、変化するものであること、及び明細書に記載された磁気光学記憶素子において、記録媒体の膜厚が100A~250Aの範囲でカー回転角が良好に増大するのは、特定の非晶質薄膜と特定波長のレーザ光、すなわち、Gd、Tb、Fe非晶質薄膜と波長6328Aレーザ光を使用したときに限られていることが明らかであるが、本願明細書の特許請求の範囲では、レーザ光の波長や非晶質薄膜の種類に関して何ら特定していないから、非晶質薄膜の膜厚を100A~250Aに設定しても、この範囲の膜厚において、カー回転角の増大率がどのように変化するか明らかでない。してみれば、本願発明において、希土類-遷移金属非晶質薄膜の膜厚を100A~250Aに特定した点に格別の意義は存在しない。

(b) 引用例1には、前記のとおり、記憶媒体の裏面に反射膜を設けた磁気光学記憶素子において、その記憶媒体(磁性薄膜)の膜厚をカー回転角が増大されるように設定することが記載されており、また、引用例2に記載された非晶質薄膜は、本願発明における非晶質薄膜と技術的に共通性を有するものであるから、引用例1記載の磁気光学記憶素子における記憶媒体として、引用例2記載の記憶媒体の膜厚をどの程度に設定するかは、当然考慮することであり、前記のとおり、本願発明において、記憶媒体の膜厚に臨界的意義がないことを併せて考えれば、前記膜厚を100A~250Aに設定することは当業者が容易に想到し得たことである。

第4  証拠関係

本件記録中の書証目録の記載を引用する(書証の成立についてはすべて争いがない。)。

理由

1(1)  請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、2(本願発明の要旨)及び3(審決の理由の要点)は、当事者間に争いはない。

(2)  審決の理由中、引用例2には、カー効果を利用して情報の再生を行なう磁気光学記憶素子の記憶媒体(磁性薄膜)の材質として、膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜を用いることが記載されていること及び相違点1、2は、当事者間に争いがない。

2  本願発明の概要

甲第2ないし第4号証(本願特許願書添付明細書及び図面、昭和56年12月29日付け、同61年12月26日付け各手続補正書、以下総称して本願明細書という。)には、次のとおりの記載があることが認められる。

(1)  「本発明はレーザ光により情報の記録・再生・消去を行う磁気光学記憶素子に関する。」(甲第2号証1頁10行、11行)、「本発明は上記した、記憶した情報を消去し新しい情報を再記憶出来る素子として期待される、記憶材料として希土類-遷移金属の非晶質薄膜を用いた磁気光学記憶素子に関するものである。」(同2頁4行ないし7行)

(2)  「磁気光学記憶素子は…再生信号レベルが低いという欠点がある。特に磁気光学記憶素子からの反射光を利用して情報の再生を行う所謂カー効果再生方式においてはカー回転角が小さいため信号雑音比(S/N)を高める事が困難であった。その為従来では記憶媒体である磁性材料を改良したり或いは記憶媒体上にSiOやSiO2の誘電体薄膜を形成したりしてカー回転角を高める工夫がなされていた。後者の例として例えばTbFe磁性体薄膜上にSiO膜を形成することによってカー回転角が0.15度から0.6度に増大した例が報告されている(IEEE Trans on Mag vol-16No5 1980 p1194)。しかしながら、上記SiOやSiO2の誘電体薄膜では、磁性体に腐蝕の恐れのある場合はその腐蝕の実質的な防制とはなり得なく、また1μm程度の小さなほこりやゴミが該誘電体薄膜に付着した場合は記録ビツト径が1μm程度であるためビツト検出が不可能になり、よって上記SiO、SiO2の誘電体薄膜を形成することは実用に適さなかった。そして前記腐蝕の防制及びほこりやゴミに対する対策の為には0.5~2mm程度のガラス又は透明樹脂を磁性体に被覆することが望ましいとされている。しかしこの被覆材では当然ながらカー回転角の増大は難しく従ってS/Nの増大の効果を得ることも困難である。」(甲第2号証2頁10行ないし3頁15行)

(3)  「本発明は以上の従来点に鑑みなされたものであり、カー回転角を増大せしめしかも充分に実用に適する手段を提供することを目的とする。」(甲第2号証3頁16行ないし18行)

(4)  「本発明によれば適切なる非晶質薄膜の膜厚と反射膜とによって、効果的にカー回転角を増大せしめることができるものである。」(甲第2号証8頁8行ないし10行)

3  審決の取消事由について検討する。

(1)  取消事由1(判断遺脱)について

〈1〉  原告は、審決は、相違点1の判断において、引用例2記載の発明の「非晶質薄膜を用いた磁気光学記憶素子」に引用例1記載の発明の「記憶媒体の裏面に反射膜を設ける」構成を適用することは容易であると判断し、引用例2を主引用例として、引用例1を補助引用例として判断したものであるから、相違点1について判断していないと主張するので検討する。

審決は、本願発明と引用例1記載の発明とを対比して、一致点を認定したうえで、相違点1及び2を認定し、次に、「そこで、上記相違点について検討する。」(甲第1号証4頁3行)として、「カー効果を利用する磁気光学記憶素子の磁性薄膜として『膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜』を用いることは引用例2に記載されている。上記非晶質薄膜を用いる磁気光学記憶素子においても、見掛け上のカー回転角の増大を図ることは、信号対雑音比を改善する上で必要なことである」(同4頁3行ないし10行)と認定し、引用例2記載の発明においても、引用例1と同様に「見掛け上のカー回転角の増大を図ることは、信号対雑音比を改善する上で必要なことである」と認定したうえで、「上記非晶質薄膜を用いた磁気光学記憶素子に対して、記憶媒体の裏面に反射膜を設ける、引用例1に記載された構成を適用することは当然考えられることと認められる。」(同4頁10行ないし13行)と判断した(以下「判断1」という。)ものである。しかして、判断1は、「また、その適用に当たって、磁性薄膜の膜厚を、見掛け上のカー回転角を大きくし得る範囲に設定する必要があることは引用例1が教えている。」(甲第1号証4頁14行ないし16行)、「本願発明において設定している非晶質薄膜の厚さ100A乃至250Aは、引用例1の場合と同様に、上記回転角の極大をもたらす磁性薄膜の厚さを調べるために0~700Aの間で膜厚を変化させたときに、見出し得る厚さであるから、上記厚さの設定に難しさがあったものとは認められない。」(同4頁17行ないし5頁3行)との判断(以下「判断2」という。)へ続くものであり、判断2は相違点2についての判断であることは明らかであるから、判断1は、相違点1についての判断と解される。たしかに、審決の判断1の当該部分の表現は明確さを欠くことは否めない。しかしながら、審決の判断1は、そもそも、上記のとおり、相違点1の判断についての記述であるから、引用例1記載の発明の構成を本願発明の相違点1の構成とすることを想到することの容易性の判断であることは、論理上当然のことである。したがって、審決の判断1は、引用例2記載の発明の「磁気光学記憶素子の磁性薄膜として『膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜』を用い」る構成を引用例1記載の発明の「記憶媒体の裏面に反射膜を設ける」構成に適用することは容易であるとの趣旨に解さざるを得ない。

以上のとおり、審決の判断1は相違点1についての判断であると認められ、原告の上記主張は採用できない。

〈2〉  さらに、原告は、判断2もまた引用例2を主引用例として、引用例1を補助引用例として判断したものであるから、審決は相違点2についても判断していないと主張する。

しかしながら、原告の上記主張は、判断1が、引用例2記載の発明の「非晶質薄膜を用いた磁気光学記憶素子」に引用例1記載の発明の「記憶媒体の裏面に反射膜を設ける」構成を適用するものとしてなされていることを前提とするものであるが、前記〈1〉のとおり、判断1は、引用例2記載の発明の、「磁気光学記憶素子の磁性薄膜として『膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜』を用いた磁気光学記憶素子」を引用例1記載の発明の「記憶媒体の裏面に反射膜を設ける」構成に適用する趣旨と解されるのであるから、審決は、その適用に当たって、「本願発明において設定している非晶質薄膜の厚さ100A乃至250Aは、引用例1の場合と同様に、上記回転角の極大をもたらす磁性薄膜の厚さを調べるために0~700Aの間で膜厚を変化させたときに、見出し得る厚さであるから、上記厚さの設定に難しさがあったものとは認められない。」(甲第1号証4頁17行ないし5頁3行)と判断したもので、引用例1記載の発明の構成を本願発明の相違点2の構成である、「非晶質薄膜の膜厚を100A乃至250Aに設定している」構成にすることを想到することが容易であるとの判断であることは明らかであるから、原告の上記主張は採用できない。

(2)  取消事由2(相違点1についての判断の誤り)について

〈1〉  (a) 引用例1の記載事項

甲第5号証(特公昭40-2619号公報、引用例1)の「磁気記録および情報貯蔵の分野において、従来の装置は記録媒体の極く近くに置かねばならない磁気記録および再生頭部を使用している。」(1頁左欄32行ないし34行)、「本発明によると与えられた磁気光学装置において最適の信号対雑音比を与える改良した磁気装置を提供する」(1頁右欄12行ないし14行)、「平面偏光が磁性表面から反射される時、それによって生ずる磁気光学回転はカー(Kerr)効果とよばれかつ本発明においてはこの効果が強磁性材料の薄膜内の反射及び干渉現象によって強められる。」(1頁右欄15行ないし18行)、「反射銀基質上においた磁性材料の層を含む磁気装置にして磁性層の厚さが該層が入射光に対し不透明でなく入射光の一部分が層を通過して銀基質から反射されて初めに反射した光と結合するように選ばれた磁気装置構造にある。」(1頁右欄19行ないし23行)、「第2図において…磁性層14は蒸着技術によって銀基質13上に沈着させた磁性材料の薄膜でありかつその中の磁区が標準磁気記録頭部によって横あるいは縦方向に向けられるような性質を持つものである。」(1頁右欄38行ないし末行)との記載によれば、カー効果を利用して情報の再生を行なう、磁性薄膜を記録媒体とした磁気光学記憶素子において見掛け上のカー回転角を増大させるため、記録媒体の裏面に反射膜を設けたものが、引用例1に記載されていると認められる。

(b) 引用例2の記載事項

前記のとおり、引用例2には、カー効果を利用して情報の再生を行なう磁気光学記憶素子の記憶媒体の材質として、膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜(磁性薄膜)を用いることが記載されていることは、当事者間に争いがない。

(c) 前記(1)のとおり、審決は、引用例2記載の発明の「磁気光学記憶素子の磁性薄膜として『膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜』を用いる」構成を引用例1記載の発明の「記憶媒体の裏面に反射膜を設ける」構成に適用すれば、本願発明の、「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜を記憶媒体として、該記憶媒体の裏面に反射膜を設けた磁気光学記憶素子」の構成になると判断しているところ、審決の前記判断は、本願発明と引用例1記載の発明とが、磁性薄膜を記憶媒体とし、該記憶媒体の裏面に反射膜を設けた磁気光学記憶素子の点で一致するとの認定を前提とするものであるが、前記(a)のとおりの引用例1の記載事項及び本願明細書の特許請求の範囲の記載によれば、審決の上記認定は正当であると認められる。

〈2〉  相違点1の判断について

(a) 原告は、引用例1記載の発明では、磁性薄膜は鉄-コバルト膜、鉄膜、コバルト膜、ニッケル膜であって、それらは希土類-遷移金属に属するものではなく、非晶質薄膜でもなく、磁化モードは面内磁化であって、垂直磁化ではないから、引用例1記載の発明の「磁性薄膜を記憶媒体とし、該記憶媒体の裏面に反射膜を設けた磁気光学記憶素子」に、引用例2に記載された発明の「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜」の構成を適用することは当業者にとって容易ではないと主張する。

しかしながら、引用例1(甲第5号証)の「本発明の主たる目的は最適の磁気光学特性を有する改良した磁気装置を提供することである。また本発明によると与えられた磁気光学装置において最適の信号対雑音比を与える改良した磁気装置を提供することも出来る。平面偏光が磁性表面から反射される時、それによって生ずる磁気光学回転はカー(Kerr)効果と呼ばれかつ本発明においてはこの効果が強磁性材料の薄膜内の反射および干渉現象によって強められる。本発明の主要な特徴は、したがって、反射銀基質上に置いた磁性材料の層を含む磁気装置にして磁性層の厚さが該層が入射光に対し不透明でなく入射光の一部分が層を通過して銀基質から反射されて初めに入射した光と結合するように選ばれた磁気装置構造にある。」(1頁右欄10行ないし23行)、「第2図に示すように、入射光線B1が反射光線B20と屈曲光線とに分れ、屈曲光線は磁性材料の層14が充分の厚さを持つときに層14内で吸収される。本発明においては、反射層13が層14の表面下に挿入されて屈曲光線が層14によって吸収される前にそれを反射する。この第2の反射成分B21が成分B20に対して磁性層14の外表面下の層13の深さによって変わる位相差を持つ。したがって層14の厚さの変化が磁性材料によって反射光に加えられる磁気光学的成分の変化をもたらしかつ成分B20とB21(…)との干渉を生ずる」(2頁左欄1行ないし11行)、「第1図に示した磁気光学装置の出力信号に関する信号対雑音比は光検出装置11の性質と磁性構造Sの表面の磁気光学回転の度合およびレフレクタンスとに関係する。信号対雑音比に影響する磁性表面の特性は一般に磁気光学回転および表面レフレクタンスに比例する大きさを持つフィガーオブメリット(Figure of merit)で定義される。膜のフィガーオブメリットは膜のレフレクタンスが増すにつれて大きくなり、かつまた磁気光学回転が増すにつれて大きくなるから、磁性層14の厚さは実物毎に最適のフィガーオブメリットを得る適当な値になるように選ばれる。最適の磁気光学回転を得るには、層14の厚さは入射光線に対し不透明でないように充分小さく取られる」(2頁左欄23行ないし36行)との記載によれば、引用例1に記載された磁気光学的応用に最適の磁性薄膜の技術は、表面反射光にカー回転角が生じる一般的な磁性材料の層(磁性膜)を対象として、その厚みを、透過光が反射光路を経て磁性膜表面に至るまでに吸収されてしまわないよう(不透明とならないよう)、また透過光の磁性膜表面での反射光に対する位相差が適切なものとなるよう設定する(すなわち、磁性膜内での透過光の光路長増加の程度を設定する)ことにより、カー回転角の増大による信号対雑音比の改良を達成し得るものであり、その場合、特に磁性膜に用いられる磁性材料や磁化方向が特定のものであることを要しないと認められる。もっとも、原告は、引用例1には、「磁性層14は蒸着技術によって銀基質13上に沈着させた磁性材料の薄膜でありかつその中の磁区が標準磁気記録頭部によって横あるいは縦方向に向けられるような性質を持つ」(甲第5号証1頁右欄下から4行ないし末行)との記載及び第1図における光の入射及び出射が斜めであることを根拠として、磁化モードは面内磁化であって、垂直磁化ではないと主張するが、原告主張の上記記載(甲第5号証1頁右欄下から4行ないし末行)は第2図についての説明であるところ、磁性膜に対する光の入射方向を斜めにした構成が図示されている第1図、第2図は、引用例1記載の磁気光学記憶素子の作動の基本原理を説明するための一実施例を示したにすぎないものであり、磁気光学記憶素子における光の入射方向や磁性膜の磁化方向について規定したものとは解されない。また、引用例1には磁性膜に用いられる磁性材料として鉄-コバルトの合金、鉄、コバルト、ニッケルが挙げられているが、これらは実施例として例示されているにすぎないものと認められる。他に、引用例1には、磁性膜に用いられる磁性材料が実施例に限定されるという記載も、磁化方向が図面に記載された磁化方向に限定されるとする記載も認められない。なお、引用例1の特許出願の優先権主張の基礎となった米国特許出願書類の磁化モードに関する記載は引用例1の明細書に記載されていないのであるから、原告の主張を裏付けるものとはならない。また、原告は、鉄-コバルト、鉄、コバルト、ニッケルの薄膜では、垂直磁化膜の実現は技術的に不可能であると主張するが、上記のとおり、引用例1は、磁性膜に用いられる磁性材料を鉄-コバルト、鉄、コバルト、ニッケルに限定するものではないから、原告の上記主張は失当である。

原告は、さらに、磁性膜に用いられる磁性材料や磁化方向を問わず適用できるとするカー回転角の増加技術が本願出願前の技術水準であることの証明はないと主張するが、後記(b)のとおり、カー回転角の増大を図るという課題を有する引用例2記載の発明の希土類-遷移金属非晶質薄膜の構成を同様の課題を有する引用例1記載の発明の記憶媒体の裏面に反射膜を設ける構成に適用するためには、カー回転角の増大を図る技術が磁性膜に用いられる磁性材料や磁化方向を問わず適用できる技術であることまで必要とされるものではないから、原告の上記主張は失当である。

(b) 次いで、引用例1記載の発明の「記憶媒体の裏面に反射膜を設けた磁気光学記憶素子」に、引用例2に記載された発明の「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜」の構成を適用することは当業者にとって容易であるか検討する。

本願明細書の「本発明は上記した、記憶した情報を消去し新しい情報を再記憶出来る素子として期待される、記憶材料として希土類-遷移金属の非晶質薄膜を用いた磁気光学記憶素子に関するものである。次に磁気光学記憶素子の従来問題点について説明する。磁気光学記憶素子は上記の利点を有する一方で再生信号レベルが低いという欠点がある。特に磁気光学記憶素子からの反射光を利用して情報の再生を行う所謂カー効果再生方式においてはカー回転角が小さいため信号雑音比(S/N)を高める事が困難であった。その為従来では記憶媒体である磁性材料を改良したり或いは記憶媒体上にSiOやSiO2の誘電体薄膜を形成したりしてカー回転角を高める工夫がなされていた。後者の例として…(IEEE Trans on Mag Vol-16 No5 1980 p1194)。」(甲第2号証2頁4行ないし3頁2行)、乙第6号証(特開昭55-130106号公報)の「既知層の磁気光学回転(カー回転およびファラデー回転)はあまり大きすぎない。…本発明の目的は、既知の希土類金属一遷移金属のメモリ素子と比較して、冒頭の節に述べたようなファラデー効果とカー効果各々を増加させる種類の磁気光学メモリを提供することにあり、この種のメモリ素子に蓄えた情報の読取りを改良することにある。」(2頁右下欄1行ないし10行)、同第7号証(日本応用磁気学会誌Vo1.3 No. 4 1979年11月31日発行)の「読み出しのSN比:Polar Kerr効果による読み出し信号のショットノイズに対するS/Nは…(1)で与えられる。ここで、…φkはKerr回転角(片側)、…。(1)式からわかるように、高いS/Nを得るためにはφk、…の大きな材料が望ましい。」(117頁右下欄6行ないし13行)との各記載によれば、希土類-遷移金属からなる非晶質の磁性膜で生ずるカー効果を利用して情報の再生を行なう磁気光学記憶素子においては、カー回転角が小さいため、情報再生信号の信号対雑音比(S/N)が小さいという問題点を有しており、カー回転角の増大を図ってS/Nを改善すべき技術課題を有していることは、本願発明の出願前、本願発明の属する技術分野において、明らかなことであったと認められる。

以上によれば、引用例2記載の磁性薄膜においても、カー回転角の増大を図りS/Nを改善すべき技術課題を有しているものであることは自明である。

もっとも、原告は、乙第6号証では、希土類-遷移金属の合金にビスマスを添加して合金の組成に改良を加えることによって、また乙第7号証では特定の組成のものであるGdCo、GdFeを用いることによって大きなカー回転角を得ているから、引用例2記載の発明の技術的課題及び構成は乙第6、第7号証に記載されたものと顕著に相違しているので、引用例2に乙第6、第7号証を結び付けることは無理であると主張するが、甲第6号証(特開昭52-31703号公報、引用例2)の「本発明の磁性薄膜記録媒体は…を含むTbとFeの非晶質合金膜であり」(2頁右上欄8行、9行)、「非晶質合金膜であるので、…、また適当な不純物(例えば、La、Y、Mo、Au、Cu等)を加えることによつて本来有する性質を基本的に変えることなく、…磁気的性質を調節しうる。」(2頁左下欄3行ないし7行)との記載によれば、引用例2記載の発明においても、希土類-遷移金属の合金(TbとFeの合金)が用いられ、また適当な不純物を加えることが開示されており、乙第6、第7号証に記載された希土類-遷移金属の合金が引用例2に記載されたTb-Feと顕著に相違していると認めるに足りる証拠はないから、原告の上記主張は失当である。

なお、原告は、審決の相違点1についての判断の誤りの根拠として、審決が、引用例1及び2には、カー効果を利用して情報の記録を行なう磁気光学記憶素子が記載されていると認定した点を挙げるところ、引用例1及び2には、カー効果を利用して情報の記録を行なうことは記載されていないことは、被告も明らかに争っていない。

しかしながら、甲第6号証(引用例2)の「光ビームを用いて書き込み、カー効果を利用して読み出しを行う。」(3頁右下欄17行、18行)との記載及び乙第4号証(日本応用磁気学会誌Vol.3 No.4 1979年11月31日発行)の「2.光磁気メモリについて」の項の、「光磁気メモリにおいては、〈1〉…、〈2〉…、〈3〉磁気の光の相互作用であるKerr効果、Farady効果などを利用して記録または再生を行なう。」(105頁左欄25行ないし31行)、「記録・消去は記録媒体を光で照射加熱し、その部分の磁気特性に変化を与え、媒体自体の磁界または外部磁界によって磁界反転を生じさせることにより行なう。」(同頁右欄2行ないし4行)、「再生には光と磁気の相互作用である磁気光学効果を利用する。」(同頁右欄末行、106頁左欄1行)、「3.光磁気メモリ媒体」の項の「面内磁化膜では…光も膜面に対して斜入射して読み出すLongitudinal Kerr効果を用いる。それに対して垂直磁化膜では…Polar Kerr効果を用いることができる。」(106頁右欄24行ないし29行)との記載によれば、カー効果は情報の再生のみに利用されるものであることは周知の事項であると認められる。そして、前記〈1〉(a)及び(b)のとおり、引用例1及び2において、カー効果を情報の再生に利用する技術が記載されているものであり、本願明細書の「本発明は以上の従来点に鑑みなされたものであり、カー回転角を増大せしめしかも充分に実用に適する手段を提供することを目的とする。」(甲第2号証3頁16行ないし18行)、「本発明によれば適切なる非晶質薄膜の膜厚と反射膜とによって、効果的にカー回転角を増大せしめることができるものである。」(同8頁8行ないし10行)との記載によれば、本願発明の技術もカー効果を情報の再生に利用する技術である。したがって、引用例1、2記載の各発明及び本願発明はいずれもカー効果を情報の再生に利用する技術である点で共通するものであるから、上記認定の誤りは、相違点1の判断に影響を及ぼしていないことは明らかである。

したがって、引用例2記載の「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜」をカー回転角の増大を図りS/Nを改善するという共通の技術課題を有している引用例1記載の発明の「磁性薄膜を記憶媒体とし、該記憶媒体の裏面に反射膜を設けた磁気光学記憶素子」に適用して、共通の技術課題を有する本願発明の「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜を記憶媒体とし」、「該記憶媒体の裏面に反射膜を設けた」「磁気光学記憶素子」の横成とすることは当業者にとって容易であると認められるから審決の相違点1についての判断に誤りはなく、取消事由2は理由がない。

(3)  取消事由3(相違点2についての判断の誤り)について

〈1〉  引用例1の記載事項

引用例1(甲第5号証)には、「本発明の主たる目的は最適の磁気光学特性を有する改良した磁気装置を提供することである。また、本発明によると与えられた磁気光学装置において最適の信号対雑音比を与える改良した磁気装置を提供することも出来る。平面偏光が磁性表面から反射される時、それによって生ずる磁気光学回転はカー(Kerr)効果と呼ばれかつ本発明においてはこの効果が強磁性材料の薄膜内の反射および干渉現象によって強められる。本発明の主要な特徴は、したがって、反射銀基質上に置いた磁性材料の層を含む磁気装置にして磁性層の厚さが該層が入射光に対し不透明でなく入射光の一部分が層を通過して銀基質から反射されて初めに入射した光と結合するように選ばれた磁気装置構造にある。」(1頁右欄10行ないし23行)、「第2図に示すように、入射光線B1が反射光線B20と屈曲光線とに分れ、屈曲光線は磁性材料の層14が充分の厚さを持つときに層14内で吸収される。本発明においては、反射層13が層14の表面下に挿入されて屈曲光線が層14によって吸収される前にそれを反射する。この第2の反射成分B21が成分B20に対して磁性層14の外表面下の層13の深さによって変わる位相差を持つ。したがって層14の厚さの変化が磁性材料によって反射光に加えられる磁気光学的成分の変化をもたらしかつ成分B20とB21(…)との干渉を生ずる」(2頁左欄1行ないし11行)、「第1図に示した磁気光学装置の出力信号に関する信号対雑音比は光検出装置11の性質と磁性構造Sの表面の磁気光学回転の度合およびレフレクタンスとに関係する。信号対雑音比に影響する磁性表面の特性は一般に磁気光学回転および表面レフレクタンスに比例する大きさを持つフィガーオブメリット(Figure of merit)で定義される。膜のフィガーオブメリットは膜のレフレクタンスが増すにつれて大きくなり、かつまた磁気光学回転が増すにつれて大きくなるから、磁性層14の厚さは実物毎に最適のフィガーオブメリットを得る適当な値になるように選ばれる。最適の磁気光学回転を得るには、層14の厚さは入射光線に対し不透明でないよう充分小さく取られる」(2頁左欄23行ないし36行)、「この厚さを越すと、磁性層は相当の光を吸収して実際上不透明になる。これに対し、透過光に対する磁気光学的効果は材料の光の行路長の大きくなるとともに増すはずでしたがって材料は光の大きな吸収を生じない範囲で出来るだけ厚くする必要がある。」(2頁左欄41行ないし45行)、「最適の厚さの磁性層に対して得られるフィガーオブメリットは入射光に対し不透明である600オングストローム以上の厚さの層について得られる値より大きい。」(2頁右欄22行ないし25行)との記載があることが認められる。そして、引用例1の第3図ないし第6図に磁性薄膜の材料として鉄-コバルト、鉄、コバルト、及びニッケルを用いた各実施例の磁気光学的性質が示されている(第3図には、鉄-コバルトからなる磁性薄膜の膜厚が、0A~500Aの範囲において変化したときのカー回転φ1、φ11、レフレクタンスR1、R11、フィガーオブメリットFMが示され、約350Aの膜厚においてカー回転が極大になっており、第4図には、鉄からなる磁性薄膜の膜厚が、0A~700Aの範囲において変化したときのカー回転φ1、φ11、レフレクタンスR1、R11が示され、約400Aの膜厚においてカー回転が極大になっており、また第5図及び第6図には、コバルト又はニッケルからなる磁性薄膜の膜厚が、0A~700Aの範囲において変化したときのカー回転φ1、φ11レフレクタンスR1、R11が示され、約350Aの膜厚においてカー回転が極大になっている。)。上記によれば、引用例1には、反射膜上に置かれた磁性薄膜の厚さは、該磁性薄膜が入射光に対して不透明でなく、入射光の一部分がこの磁性薄膜を通過して反射膜から反射されて初めに反射した光と結合するように選ばれること、磁性薄膜の厚さの変化が、磁性材料によって反射光に加えられる磁気光学的成分の変化をもたらし、かつ反射光成分B20と第2の反射光成分B21との干渉を生じること、及び、磁性薄膜の厚さは実物毎に最適のフィガーオブメリットを得る適当な値になるように選ばれること、及び、磁性薄膜の材料として鉄-コバルト、鉄、コバルト、又はニッケルを用いた各実施例において、膜厚が0A~500A又は0A~700Aの範囲において変化したとき、約350A又は400Aの膜厚においてカー回転が極大になることが記載されていると認められる。

したがって、審決の、「引用例1には、反射膜を設けた上記磁気光学記憶素子の見掛け上のカー回転角の大きさが、磁性薄膜の厚さに依存することが記載され、上記厚さを0~700Aの範囲で変化させたとき、その間に上記回転角の極大をもたらす厚さの存在することが記載されている」との認定に誤りはない。

原告は、引用例1には、鉄-コバルト膜、鉄膜、コバルト膜、ニッケル膜について、少なくとも0A~350A未満の間及び400A超~700Aの間にカー回転角の極大をもたらす厚さが存在することは記載されていないと主張するが、審決の上記認定は、0~700Aの範囲のいずれにも上記極大をもたらす厚さが存在すると認定しているものではなく、したがって、原告主張の範囲にもカー回転角の極大をもたらす厚さが存在することを認定しているものではないから、原告の主張は失当である。

さらに、原告は、引用例1には、最適の厚さの磁性層に対して得られるフイガーオブメリットは入射光に対して不透明である600A以上の厚さの層について得られる値よりも大きい旨の記載があり、かかる記載によれば、600A以上の厚さの層に対して磁性層は不透明であるから、カー回転角の極大がもたらされることは不可能であると主張するが、原告の上記主張は、600A以上の厚さの層にもカー回転角の極大をもたらす厚さが存在するとの認定を前提とするものであるところ、上記のとおり、審決の上記認定は、このような認定をしているものではないから、原告の上記主張は失当である。

また、原告は、審決が、非晶質薄膜の膜厚を100A~250Aに設定している点を相違点として挙げたことは、引用例1に非晶質薄膜の膜厚を100A~250Aに設定する点は記載されていないことを認めたことになるから、審決の上記認定と矛盾すると主張するが、原告の上記主張は、カー回転角の極大をもたらす非晶質薄膜の膜厚が100A~250Aに存在するとの認定を前提とするものであるところ、審決の上記認定は、このような認定をしているものではないから、原告の上記主張は失当である。

〈2〉  引用例2の記載事項

原告は、引用例2では、膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜の膜厚を500Aより小さくすることを明確に排除する記載がある(甲第6号証2頁右下欄6行ないし8行)から、本願発明の「記憶媒体の膜厚を100A乃至250A」とする構成に想到することは容易ではないと主張する。

たしかに、甲第6号証(引用例2)には、「膜面に垂直な方向が磁化容易となるようにするためには膜厚を500A以上にしなければならない。」との記載があることが認められる。

しかしながら、乙第2号証(特開昭55-52535号公報)には、「本発明磁気記録媒体は、それぞれ、少なくとも希土類金属および鉄族金属を含有して膜面に垂直の方向に磁気異方性を有する複数の層よりなる非晶質磁性薄膜を有する磁気記録媒体において、前記非晶質磁性薄膜のうち、垂直磁気異方性の大なる層の厚さを、熱磁気記録が可能の範囲内において、垂直磁気異方性の小なる層の厚さより大きくしたことを特徴とするものである。」(2頁右上欄17行ないし左下欄4行)、「第2図に示すように、異方性定数Kuが増大する方の層の体積すなわち膜厚を他方の層の膜厚に対して相対的に増大させ、もって、2層構造による2層間境界面を保持したままの状態で、異方性定数Kuが減少する方の層における異方性定数減少の磁壁抗磁力に及ぼす影響を少なくしてやれば、微小記録ビットを安定化を達成し得ることになる。」(3頁右上欄8行ないし15行)、「第3図には本発明磁気記録媒体における非晶質磁性薄膜を2層構造とした場合の構成例を示したが、本発明磁気記録媒体は、この例に限ることなく、3層もしくはそれ以上の多層構造とすることもでき、その場合の構成例を第4図に示す。」(同頁右下欄5行ないし9行)、「第5図示の特性曲線においては、…図中、特性曲線(A)は膜厚1600Aの単一層よりなるGdFe非晶質磁性薄膜の例を示し、特性曲線(B)はGdFe薄膜を第1図に示したように膜厚を等しく、例えばt1=t2=800Aの2層構造とした場合の例を示し、特性曲線(C)は本発明により第3図に示すようにそれぞれの膜厚を異ならせ、例えばt1=1400A、t2=200Aの2層構造とした場合の例を示し、特性曲線(D)は、第6図に示すように、第3図示の場合とは逆にして、異方性定数Kuが減少する方の層の膜厚を相対的に増大させて例えばt1=200A、t2=1400Aとし、さらに、その異方性定数Kuが減少する方の層を硝子基板に直接被着して硝子基板とは反対の側からレーザビームの照射を行なった場合の例を示している。」(4頁右上欄6行ないし左下欄2行)と記載されており、これらの記載及び第2図ないし第6図によれば、希土類-遷移金属(Gd-Fe)の非晶質薄膜からなり膜面に垂直な磁化容易軸を有する膜厚を異ならせた複数の層(磁性膜)を備えた磁気記録媒体(磁気記憶媒体と同義である。)において、膜厚を200A程度に薄くしていることが認められる。そうすると、本願出願当時(昭和56年7月2日)において、膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜の膜厚を500Aよりかなり薄い200A程度にすることは、既に知られていたのであるから、引用例2に上記のような記載があるからといって、引用例2記載の発明の非晶質薄膜を用いた磁気光学記憶素子を引用例1記載の発明の記憶媒体の裏面に反射膜を設ける構成に適用するに当たって、膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜の膜厚を500Aより小さくすることが明確に排除されているとすることは相当ではない。

したがって、原告の上記主張は採用できない。なお、原告は、乙第2号証に記載のものは、膜面に垂直の方向に磁気異方性を有する複数の層より成る非晶質磁性薄膜を磁気記憶媒体として用いるものに係り、薄い層の膜厚が200Aのものを分離して記憶媒体として用いることの記載はないと主張するが、乙第2号証において、膜面に垂直な磁化容易軸を有する膜厚が200Aの層が開示されていることには変わりはないから、原告の上記主張は理由がない。

しかして、本願発明における磁性薄膜は、材料の組合せが特定されているわけでもなく、「膜面に垂直な磁化容易軸を有する希土類-遷移金属非晶質薄膜」である点で引用例2に記載された磁性薄膜と共通するものであるから、その膜厚の違いだけをもって、引用例2に記載された磁性薄膜と本願発明における磁性薄膜とが別異の技術であるということはできない。

〈3〉  また、本願明細書を精査しても、非晶質薄膜の膜厚「100A乃至250A」は、数値限定の臨界的意義を示すものとは認められず、カー回転角がおおむね所定値以上になる膜厚を選択したものにすぎないものと認められる。

以上によれば、審決の「本願発明において設定している非晶質薄膜の厚さ100A乃至250Aは、引用例1の場合と同様に、上記回転角の極大をもたらす磁性薄膜の厚さを調べるために0~700Aの間で膜厚を変化させたときに、見出し得る厚さであるから、上記厚さの設定に難しさがあったものとは認められない。」(甲第1号証4頁17行ないし5頁3行)との判断に誤りがなく、取消事由3は理由がない。

4  以上のとおり、原告主張の取消事由はいずれも理由がなく、審決に取り消すべき違法はない。

よって、原告の本訴請求は失当として棄却し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 伊藤博 裁判官 濵崎浩一 裁判官 押切瞳)

平成4年(行ケ)第113号審決取消請求事件

判決

大阪府門真市大字門真1006番地

原告 松下電器産業株式会社

同代表者代表取締役 森下洋一

同訴訟代理人弁護士 中村稔

同 松尾和子

同訴訟代理人弁理士 大塚文昭

同 竹内英人

同 小鍛治明

同 滝本智之

東京都千代田区霞が関3丁目4番3号

被告 特許庁長官

高島章

同指定代理人 藤井俊明

同 中村友之

同 井上元広

同 吉野日出夫

東京都千代田区神田駿河台4丁目6番地

被告補助参加人 株式会社日立製作所

同代表者代表取締役 金井務

同訴訟代理人弁護士 田倉整

同訴訟代理人弁理士 本多小平

同 古賀洋之助

主文

1 特許庁が昭和63年審判第17834号事件について平成4年4月2日にした審決を取り消す。

2 訴訟費用中、補助参加によって生じた費用は被告補助参加人の負担とし、その余の費用は被告の負担とする。

事実

第1 当事者の求めた裁判

1 原告

主文同旨

2 被告

(1) 原告の請求を棄却する。

(2) 訴訟費用は原告の負担とする。

第2 請求の原因

1 特許庁における手続の経緯

原告は、昭和56年3月4日名称を「スクロール圧縮機」とする発明(以下「本願発明」という。)について、特許出願(昭和56年特許願第31828号)をしたところ、昭和63年9月13日拒絶査定を受け、同年10月31日査定不服の審判を請求し、昭和63年審判第17834号事件として審理され、平成2年5月10日出願公告されたが、被告補助参加人株式会社日立製作所から特許異議の申立てがあり、平成4年4月2日異議の申立ては理由があるとの決定とともに「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決があり、その謄本は、同年5月11日原告に送達された。

2 本願発明の要旨

渦巻曲線からなるラップを鏡板に形成した固定スクロール及び可動スクロールを互いにラップを内側にしてかみ合わせ、可動スクロールを固定スクロールに対して旋回運動させて前記両スクロールのラップで閉じられた複数の密閉空間内のガスを順次昇圧して前記固定側の鏡板のほぼ中央に設けた吐出孔から高圧ガスを流出させる構成とし、前記吐出孔の直径を前記ラップ幅よりも大きく構成するとともに、前記可動側ラップの渦巻開始先端が旋回運動により固定側ラップと接触がはずれる最終圧縮状態では、前記吐出孔が可動側ラップの外周縁より内側に入り、かつ内周縁より外側に一部出る構成とし、可動側ラップの外周縁より外側の空間と前記吐出孔との間を前記可動側ラップと前記固定スクロールの鏡板によってシールしてなるスクロール圧縮機(別紙図面1参照)

3 審決の理由の要点

(1) 本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。

(2)〈1〉 昭和55年特許出願公開第101788号公報(以下「引用例」という。別紙図面2参照)には、「ピッチ及び歯厚が同一であって半径の異なる複数個の半円弧を右巻き又は左巻きに順次渦巻き状に接続して形成した」(1頁左下欄5行ないし7行)、「左巻き又は右巻きのスクロール歯をそれぞれの表面に設けた2個のスクロール部材を互いに180°回し対面させて組み合せ、その一方を他方に対していわゆる公転運動を行なわせることによって、相互のスクロール歯に挟まれた空間が中心部に向かって移動しつつ小さくなることを利用し、この空間に被圧縮流体を流入させて圧縮する」(1頁右下欄9行ないし16行)スクロール圧縮機について記載されている。

また、該スクロール圧縮機の終期圧縮室形成状態(第7図Cがこれに相当する。)における吐出穴32と揺動側スクロール歯31との位置関係について明記されていないが、引用例の4頁左上欄8行目ないし右上欄6行目に、『この揺動角度α=220°においては、各スクロール歯30、31の内端は、切り欠かれて残った小半円弧30’、31’又は半円弧30”、31”の末端、本実施例では小半円弧30’及び31’の末端において、それぞれ、相手側スクロール歯31、30に接しており、終期圧縮室34を密閉状態としている。また、35は吐出穴32に連通した圧縮室であり、終期圧縮室34も所定の揺動角度α=220°を超えるとともに、各スクロール歯30、31の先端が相手側スクロール歯31、30と離れて、吐出穴32に連通する圧縮室35になる。また、この吐出穴32は揺動角度α=220°においては、揺動スクロール歯31によって終期圧縮室34に連通しない範囲で拡大されており、スクロール歯の歯厚と同値の直径以下に限定されていた従来の吐出穴に比べて、著しく拡大されている。なお、更に大きな吐出穴を必要とする場合には、圧縮比の低下を我慢する』と記載されている。

この記載内容、とりわけ、「吐出穴32は終期圧縮室34に連通しない範囲で拡大され」の記載からすると、吐出穴と揺動側スクロール歯との位置関係については、吐出穴が揺動側スクロール歯側に拡大されており、吐出穴の拡大程度は、揺動側スクロール歯の外周縁より内側に入り、内周縁より外側に一部出る範囲のものと解される。さらに、前記解釈を妥当とする裏付けとして、前記「更に大きな吐出穴を必要とする場合には、圧縮比の低下を我慢する」旨の記載が認められる。

すなわち、吐出穴の拡大程度を吐出穴と揺動側スクロール歯との位置関係でみると、両者の位置関係は、特許異議申立書並びに証拠補充書に添付の参考図4(別紙図面3、以下「審決摘示の参考図」という。)に示された吐出穴と揺動側スクロール歯との位置関係のとおり、〈b〉で示された揺動側スクロール歯の内周縁に接する大きさの吐出穴である場合はもちろんのこと、〈c〉で示された揺動側スクロール歯の外周縁より内側に入り、内周縁より外側に一部出る大きさの吐出穴である場合をも含むものと解される。何故ならば、〈c〉で示された吐出穴の場合が吐出穴から吐出される圧縮流体の流通抵抗を考慮に入れたとしても、大吐出量が確保され、しかも、高圧縮比(高吐出圧力)が得られるからである。そして、〈d〉で示された吐出穴の場合は、もはや揺動側スクロール歯と吐出穴との重なり具合から吐出穴と終期圧縮室との間のシール性が低下し圧縮比の低下が始まり、さらに大きな吐出穴として吐出穴と終期圧縮室とが連通した場合に至っては、当然にして圧縮比がさらに低下する。

引用例記載の発明がこのような作用をするものと理解すると、前記「更に大きな吐出穴を必要とする場合には、圧縮比の低下を我慢する」との記載内容と辻褄があい、吐出穴と揺動側スクロール歯との位置関係について前記のように解釈したことが妥当であると認められる。

また、前記『 』内の記載中「吐出穴は…揺動スクロール歯によって終期圧縮室に連通しない」旨の記載からすると、前記引用例には、終期圧縮室形成状態では、揺動側スクロール歯31の外周縁より外側の空間(終期圧縮室)34と吐出穴(圧縮室35)との間を揺動側スクロール歯31と固定スクロール部材のスクロール歯底面によって連通しないようにしたものが、さらに「吐出穴32は…スクロール歯の歯厚と同値の直径以下に限定されていた従来の吐出穴に比べて、著しく拡大されている」旨の記載からすると、前記引用例には、吐出穴32の直径を、スクロール歯30、31の幅よりも大きく構成したものが、それぞれ開示されているものと認める。

〈2〉 以上を総合すると、前記引用例には、ピッチ及び歯厚が同一であって半径の異なる複数個の半円弧を右巻きまたは左巻きに順次渦巻き状に接続して形成した、左巻きまたは右巻きのスクロール歯をそれぞれの表面に設けた2個のスクロール部材を互いに180°回し対面させて組み合わせ、その一方を他方に対していわゆる公転運動を行わせることによって、相互のスクロール歯に挟まれた空間が中心部に向かって移動しつつ小さくなることを利用し、この空間に被圧縮流体を流入させて圧縮するスクロール圧縮機において、吐出穴32の直径を、スクロール歯30、31の幅よりも大きく構成するとともに、揺動側スクロール歯31の渦巻開始先端が旋回運動により固定側スクロール歯30と接触がはずれる終期圧縮室形成状態では、吐出穴32が揺動側スクロール歯31の外周縁より内側に入り、かつ内周縁より外側に一部出る構成とし、揺動側スクロール歯31の外周縁より外側の空間(終期圧縮室)34と吐出穴(圧縮室35)との間を揺動側スクロール歯31と固定スクロール部材のスクロール歯底面によって連通しないようにしたスクロール圧縮機が、記載されているものと認める。

〈3〉 そこで、本願発明と引用例記載の発明を対比すると、本願発明の「ラップ」「可動側ラップ」「スクロール」「最終圧縮状態」「鏡板」及び「シール」は、それぞれ引用例記載の「スクロール歯」「揺動側スクロール歯」「スクロール部材」「終期圧縮室形成状態」「スクロール歯底面」及び「非連通」に相当するから、両者は、「吐出孔の直径を、ラップ幅よりも大きく構成するとともに、可動側ラップの渦巻開始先端が旋回運動により固定側ラップと接触がはずれる最終圧縮状態では、吐出孔が可動側ラップの外周縁より内側に入り、かつ内周縁より外側に一部出る構成とし、可動側ラップの外周縁より外側の空間と吐出孔との間を可動側ラップと固定スクロールの鏡板によってシールしてなるスクロール圧縮機」である点で一致し、他方、前提となるスクロール圧縮機の基本構成の記載の仕方において、両者は、一応相違が認められる。

〈4〉 前記相違点について検討すると、本願発明の前記要旨中その前段部分に記載されたスクロール圧縮機の基本構成については、従来どのスクロール圧縮機についても普遍的かつ共通的にいえることであり、当然にして、引用例記載の発明にもあてはまるものである。以上の如く、前記相違点は、単なる形式上ないしは表現上の相違といわざるをえない。

〈5〉 したがって、本願発明は、引用例記載の発明と同一の発明に帰するものであるから、特許法29条1項3号に該当し、特許を受けることができない。

4 審決の取消事由

審決の認定判断のうち、審決の理由の要点(1)は認める、(2)〈1〉のうち、引用例の記載は認めるが、その余は争う、〈2〉のうち、「以上を総合すると」から「スクロール歯30、31の幅よりも大きく構成するとともに、」までは認めるが、その余は争う、〈3〉ないし〈5〉は争う。

審決は、引用例記載の発明の技術的意義を誤認した結果、引用例記載の発明は、本願発明における「可動側ラップの渦巻開始先端が旋回運動により固定側ラップと接触がはずれる最終圧縮状態では、前記吐出孔が可動側ラップの外周縁より内側に入り、かつ内周縁より外側に一部出る構成」(以下、この構成を「本願発明における終期圧縮室形成状態の構成」という。)を有しないことを看過し、本願発明と引用例記載の発明とを同一であると誤って判断したもので、違法であるから、取り消されるべきである。

(1) 引用例記載の発明は、従来のスクロール圧縮機において、吐出孔をスクロール歯のラップ幅よりも大きく構成して、大吐出量を確保することを1つの目的としている。

しかし、審決が前述しているとおり、引用例には、「該スクロール圧縮機の終期圧縮室形成状態(第7図Cがこれに相当する。)における吐出穴32と揺動側スクロール歯31との位置関係について明記されていない」のである。それにもかかわらず、審決は、引用例の「この吐出穴32は揺動角度α=220°においては、揺動スクロール歯31によって終期圧縮室34に連通しない範囲で拡大されており」とする記載からみて、「吐出穴の拡大程度は、揺動側スクロール歯の外周縁より内側に入り、内周縁より外側に一部出る範囲のものと解される」と解釈している。そして、上記審決の解釈の妥当性は、引用例が、前記記載に続き、なお書きとして「更に大きな吐出穴を必要とする場合には、圧縮比の低下を我慢する」と記載していることから裏付けられるとしている。

しかしながら、何故このなお書き部分が審決の前記解釈の妥当性を担保するのか理解することができない。審決のこの点に関する実質的根拠は、審決摘示の参考図であるようにみえるが、しかし、この参考図は、異議申立人が、本願発明の開示により得られた知識を、引用例に当てはめてて考察したものを示したにすぎず、その当てはめられた技術が、引用例に開示されていることまでを示すものではない。

「更に大きな吐出穴を必要とする場合には、圧縮比の低下を我慢する」との記載は、切欠き角度をさらに小さくすれば(これにより圧縮比が低下する。)、圧縮の終期における圧縮室35の拡大がはかられ、その結果、吐出穴32を大きくすることが可能である、ということを開示しているにすぎず、吐出穴32の拡大の程度が揺動スクロール歯の外周縁より内側に入り、内周縁より外側に一部出る構成を何ら示すものではない。

すなわち、引用例記載の発明における吐出穴の拡大の程度は、第7図C及びその説明事項の「32は所望吐出量に対応して拡大された吐出穴である」から明らかなように、吐出穴32は、確かにスクロール歯30、31の厚さより直径が大きい。しかし、吐出穴32は、その一部が揺動側スクロール歯31の内縁に接するところまで拡大していることを図示しているにすぎず、また、明細書中にそれ以上のことを示唆する記載もない。

(2) 本願発明と引用例記載の発明が終期圧縮室形成状態の構成において相違することは、両発明がその目的を異にすることからも明らかである。

すなわち、本願発明の目的は、要約すると、吐出孔の大きさを最適な大きさとするとともに、吐出孔とスクロール歯のラップとの位置関係を最適にすることによって、吐出孔における冷媒ガスの流出抵抗を小さくするとともに、冷媒ガス吐出後の吐出孔に連通した圧縮空間とこの圧縮空間ととなりあう圧縮空間との圧力バランスを早くとることによって、余分な圧縮作用をなくして、動力損失をなくすことにある。

これに対し、引用例記載の発明の目的は、スクロール歯の巻数及び歯厚を変化させることなく、しかも、容積比を変化させ得る手段、及び、吐出孔を大きくして吐出量を増大させ得る手段の両方またはそのいずれかを得ることを目的とするものである。

つまり、本願発明にあっては、吐出孔を拡大した後、吐出量とラップの位置関係を適切にとるとする直接の技術的課題と合わせて、吐出後、吐出孔の連通する圧縮空間の隣の圧縮空間との圧力バランスを早くとり、動力損失をなくすことを直接の技術的課題とするため、これを解決する手段として本願発明における終期圧縮室形成状態の構成を採用したのに対し、引用例記載の発明は、スクロール歯の先端の半円弧の部分を切り欠く構成を通じて、そのスクロール歯の巻数及び歯厚を変化させることなく、容積比を変化させるという直接の技術的課題を達成している。

したがって、両者は、冷媒の吐出量を増大させる手段を得るという大目的では共通するものの、それを達成するための直接の技術的課題とそれを解決するための手段では、明白に異なっている。

(3) また、本願発明と引用例記載の発明は、終期圧縮室形成状態の構成を異にする結果、奏する作用効果を異にしている。

本願発明にあっては、その要旨とする構成を採用した結果、吐出孔とラップとの位置関係を適切にとることによって吐出孔の拡大をはかることができ、これにより、圧力比は一定であるうえ、吐出孔に連通した圧縮空間とこの圧縮空間と隣り合う圧縮空間との連通を吐出孔を介して行うことにより過圧縮を防止できるという作用効果を奏する。

これに対し、引用例記載の発明にあっては、スクロール歯先端の切欠きにより所望の圧縮比が得られるという作用効果を奏するが、その角度を小さくし、吐出穴に連通する圧縮室の容積を増して吐出穴を大きくすれば、圧縮比は低下することになる。

第3 請求の原因に対する認否及び被告及び補助参加人(以下「被告ら」という。)の主張

1 請求の原因1ないし3は認める、同4は争う。審決の認定判断は正当であり、審決に原告主張の違法はない。

2(1)〈1〉 原告は、引用例の第7図C及びその説明事項を正しく理解していない。これを正しく理解するためには、同図に示すスクロール歯のピッチaと歯厚tとの関係が、a=3tであることを前提において考察しなければならない。スクロール歯のピッチaとは、渦巻状のスクロール歯における隣り合う歯厚中心間の距離をいい、引用例の第5図は、a=3tを正確に図示している。

引用例には、「第5図は本発明の一実施例におけるスクロール歯の形状平面図、第6図はそのスクロール歯をそれぞれ表面に設けたスクロール部材を組み合せたスクロール圧縮機のスクロール歯組合せ平面概略図、第7図はその各揺動角度における両スクロール歯の関係状態図である」(4頁右下欄18行ないし5頁左上欄3行)と記載され、また、「第6図に示すものは2巻のスクロール歯30、31を組み合せ、切欠きのための角度θすなわち所望圧縮比が得られる揺動角度α、又は、所望吐出量に適応して拡大された吐出穴が揺動側スクロール歯によって連通しないような揺動スクロール部材の揺動角度αが、180°と270°との間すなわち220°である場合の例であって、このように切り欠かれたスクロール歯30、31を有するスクロール圧縮機の作動状態を第7図に示す。第7図Aは揺動角度αが0°、Bは90°、Cは220°、Dは270°の場合の状態を示している」(3頁右下欄7行ないし17行)と記載されていることからみて、引用例の第6図及び第7図におけるスクロール歯のピッチaと歯厚tとの関係は、同じく第5図におけるそれと同様に、a=3tの関係にあることは明らかである。

〈2〉 引用例の第7図は、その図示のみからすると、スクロール歯のピッチaと歯厚tとの関係が、a=5tの関係にあるようにもみえるが、同図A、B、C、Dは、正しくはa=3tのスクロール圧縮機の作動状態として、それぞれ揺動角度αが0°、90°、220°、270°の場合であると理解すべきである。ちなみに、引用例の第1図ないし第4図も、すべてa=3tのスクロール歯を示しており、引用例の第7図だけがa=5tのスクロール歯を示すものであると解すべき根拠を、引用例中にみいだすことはできない。

したがって、引用例の第7図及びその説明事項を正しく理解するためには、スクロール歯のピッチaと歯厚tとの関係が、a=3tの関係にあるスクロール圧縮機の作動状態を示す正確な第7図A、B、C、Dを描いてみる必要があり、これを行ったのが、別紙図面4、参考図1(以下「参考図1」という。)のA、BC、Dである。

引用例の第7図Cに対応する参考図1Cをみれば、揺動側スクロール歯31の渦巻開始先端が旋回運動により固定側スクロール歯30と接触が外れる揺動角度220°における終期圧縮室形成状態では、スクロール歯の歯厚と同値以下に限定されていた従来の吐出穴でさえ、揺動側スクロール歯31の内周縁より外側に一部でている。そして、引用例の第7図C(参考図1C)に示される吐出穴32は、原告も認めているように、その直径がスクロール歯30、31の幅(歯厚)より大きく構成されているのであるから、該吐出穴32は、参考図1Cに示されるように、審決が認定する構成、すなわち、吐出穴32が揺動側スクロール歯31の外周縁より内側に入り、かつ内周縁より外側に一部出る構成とならざるを得ないのである。

〈3〉 引用例記載の発明が前記〈2〉の構成を有することは、次の点から明らかである。

すなわち、審決摘示の「この揺動角度d=220°…著しく拡大されている。」(4頁左上欄8行ないし右上欄5行)との引用例の記載は、引用例の第5図に示されるピッチaがa=3tで、切欠き角度θが220°であるスクロール圧縮機の終期圧縮室形成状態における拡大吐出穴32について説明しているものであるが、この説明は、a=3t、θ=220°のスクロール圧縮機に限って当てはまるのではなく、たとえば、ピッチaがa=5tで、切欠き角度θが270°、220°、180°である各スクロール圧縮機についても当てはまるものである。そこで、ピッチaがa=5tで、切欠き角度θが270°、220°、180°である各スクロール圧縮機について図示すると、別紙図面4、参考図2ないし4(以下それぞれ「参考図2」「参考図3」「参考図4」という。)の各A、B、C、Dのようになる。

参考図2は、a=5t、θ=270°であるスクロール圧縮機の作動状態を示したものであり、同図のA、B、C、Dは、それぞれ揺動角度αが、0°、90°、180°、270°の場合を示すが、揺動角度α=270°において終期圧縮室形成状態となる。同図Dから明らかなように、終期圧縮室形成状態において、吐出穴〈a〉でさえ、揺動側スクロール歯31の外周縁より内側に入り、かつ内周縁より外側に一部出る構成であるから、拡大吐出穴〈b〉は審決認定の構成を有するものとならざるを得ないのである。

参考図3は、a=5t、θ=220°であるスクロール圧縮機の作動状態を示したものであり、同図のA、B、C、Dは、それぞれ揺動角度αが、0°、90°、180°、270°の場合を示すが、揺動角度α=220°において終期圧縮室形成状態となる。同図Cから明らかなように、終期圧縮室形成状態において、拡大吐出穴〈c〉及び〈d〉は、揺動側スクロール歯31の外周縁より内側に入り、かつ内周縁より外側に一部出る構成であるから、すなわち審決認定の構成を有するものであり、同図に示される拡大吐出穴が、〈c〉及び〈d〉を含まず、揺動側スクロール歯の内周縁に接する程度まで拡大された〈b〉に限られるとすべき理由を引用例の記載の中にみいだすことはできない。

参考図4は、a=5t、θ=180°であるスクロール圧縮機の作動状態を示したものであり、同図のA、B、C、Dは、それぞれ揺動角度αが、0°、90°、180°、270°の場合を示すが、揺動角度α=180°において終期圧縮室形成状態となる。同図Cから明らかなように、終期圧縮室形成状態において、拡大吐出穴〈d〉及び〈e〉は、揺動側スクロール歯31の外周縁より内側に入り、かつ内周縁より外側に一部出る構成であるから、すなわち審決認定の構成を有するものであり、同図に示される拡大吐出穴が、〈d〉及び〈e〉を含まず、揺動側スクロール歯の内周縁に接する程度まで拡大された〈c〉に限られるとすべき理由を引用例の記載の中にみいだすことはできない。

このように、引用例の記載は、参考図2ないし4の各図の示すように、それぞれの拡大吐出穴〈a〉及び〈b〉、拡大吐出穴〈c〉及び〈d〉、拡大吐出穴〈d〉及び〈e〉が、終期圧縮室形成状態において、「吐出穴32が揺動側スクロール歯31の外周縁より内側に入り、かつ内周縁より外側に一部出る構成」すなわち審決認定の構成を有することを示しているのである。

(2) 両発明の目的が相違するとの原告の主張は争う。

本願発明の「吐出孔における冷媒ガスの流出抵抗を小さくする」との目的と、引用例記載の発明の「吐出穴を大きくして吐出量を増大させる手段」を得るとの目的は、共通するものであり、両者が異なった目的を有するということはできない。

(3) 両発明の作用効果が相違するとの原告の主張は争う。

引用例には、本願発明における終期圧縮室形成状態の構成と同一の構成が記載されているのであるから、該構成に基づく作用効果に関しては、両者は同一である。

第4 証拠関係

証拠関係は、本件記録中の書証目録記載のとおりであるから、これをここに引用する(書証の成立については、いずれも当事者間に争いがない。)

理由

第1 請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、同2(本願発明の要旨)、同3(審決の理由の要点)は、当事者間に争いがない。

第2 そこで、原告主張の審決の取消事由について検討する。

1 甲第2号証(平成2年特許出願公告第20836号公報)によれば、本願明細書には、本願発明の概要について、以下のとおり記載されていることが認められる。

〈1〉 本願発明は、冷凍、冷房機等に搭載されるスクロール圧縮機に関するものである。(1欄20行ないし21行)

〈2〉 従来のスクロール圧縮機においては、その可動側ラップの渦巻開始先端が固定側ラップと接触がはずれる前の状態において、吐出孔が可動側ラップの内側になく、既に吐出孔が次の密閉空間と相通じているために、密閉空間は圧縮されないばかりか、折角それまで圧縮していたガスがより圧力の低い密閉空間へ流れ込んでしまい、必要動力が増加し、圧縮機としての効率が低下してしまうという欠点があった。

この問題を解決するため、吐出孔をラップ幅より小さくするものがあるが、吐出孔を小さくすると、冷媒ガスの流通抵抗が大きくなり、圧縮機の性能が著しく低下してしまうという問題があった。

また、吐出孔をラップ幅より大きく構成するとともに、可動側ラップの渦巻開始先端が旋回運動により固定側ラップと接触がはずれる最終圧縮状態では、吐出孔が可動側ラップの内周縁より内側に入るように構成したもの(例えば、引用例記載の発明)があるが、こうすると、冷媒ガスの流通抵抗を小さくするとともに、圧縮した冷媒ガスを圧力の低い密閉空間へ逆流させることもないが、冷媒ガスを吐出させた後の行程において、余分な圧縮を行なわなければならないという問題があった。(3欄15行ないし4欄6行)

〈3〉 本願発明は、吐出孔の大きさを最適な大きさとするとともに、可動側ラップ及び固定側ラップとの位置関係を適切にとることによって、吐出孔における冷媒ガスの流通抵抗を小さくするとともに、冷媒ガス吐出後の吐出孔に連通した圧縮空間とこの圧縮空間ととなりあう圧縮空間との圧力バランスを早くとることによって、余分な圧縮作用をなくし、動力損失をなくすことを目的とする。(4欄11行ないし19行)

〈4〉 本願発明は、上記目的を達成するため、特許請求の範囲1記載の構成(1欄2行ないし17行)を採用した。

〈5〉 本願発明は、その構成により、吐出孔の直径を大きくすることができるので、吐出孔における冷媒ガスの流通抵抗を小さくし、圧縮機の性能を向上させることができる。

また、終期圧縮室形成状態において、吐出孔と可動側ラップの外周縁より外側の空間との間をシールできるので、吐出孔を含み可動側ラップと固定側ラップとにより形成される密閉空間の冷媒が他の空間にもれることが少なく、所定の圧縮比で効率の高い圧縮が可能となる。

また、最終圧縮状態からわずかでも回転が進んだ状態では、吐出孔に連通した圧縮空間とこの圧縮空間ととなりあう圧縮空間との連通が、揺動スクロールの歯の先端からだけではなく、吐出孔を介しても行われるため、吐出孔に連通した圧縮空間とこの圧縮空間ととなりあう圧縮空間との圧力バランスを早く行うことができ、過圧縮をなくし動力損失を防止できる。(4欄31行ないし5欄2行、6欄10行ないし30行)

2〈1〉 原告は、引用例には、「該スクロール圧縮機の終期圧縮室形成状態(第7図Cがこれに相当する。)における吐出穴32と揺動側スクロール歯31との位置関係について明記されていない」にもかかわらず、審決は、引用例の「この吐出穴32は揺動角度α=220°においては、揺動スクロール歯31によって終期圧縮室34に連通しない範囲で拡大されており」とする記載及び「更に大きな吐出穴を必要とする場合には、圧縮比の低下を我慢する」とする記載からみて、「吐出穴の拡大程度は、揺動側スクロール歯の外周縁より内側に入り、内周縁より外側に一部出る範囲のものと解される」と認定したのは誤りであると主張する。

〈2〉 そこで、検討するに、甲第3号証(昭和55年特許出願公開第101788号公報)によれば、引用例には、吐出穴を大きくすることに関連し、以下のように記載されていることが認められる。

(a) 「(従来のスクロール圧縮機の)圧縮比は、…吸入完了時の容積すなわち初期圧縮室12の容積と、圧縮完了時の容積すなわち最小圧縮室13の容積との比となり、…巻数によって一義的に定まり、他のパラメータには依存せず、一定であり、また、吐出穴14の閉鎖も、揺動スクロール歯11の先端部によってのみ行われるために、吐出穴14を、歯厚を直径とする穴以上の大きさとすることもできなかった。しかるに、巻数を変化させることなく圧縮比すなわち容積比を変化させることの要求や、又は、吐出容量増大の要請に基づき吐出穴を大きくすることの要求が往々にして生ずるが、この要求に対応する方法は従来は全くないという欠点があった」(3頁左上欄17行ないし右上欄11行)

(b) 「本発明はこのような従来の欠点を除去して、巻数及び歯厚を変化させることなく、しかも、容積比を変化させ得る手段、及び、吐出穴を大きくして吐出量を増大させる手段の両方又はそのいずれかを得ることを、その目的とするものである」(3頁右上欄12行ないし16行)

(c) 「本発明に使用されるスクロール部材のスクロール歯20は、…従来装置におけるスクロール歯と同様の形状を有するが、その内端側は所定の角度θの範囲の小半円弧21又は半円弧22を残して先端が切り欠かれている」(3頁右上欄19行ないし左下欄3行)

(d) 「この角度θは、…終期圧縮室容積が初期圧縮室12の容積に対して所望の圧縮比となるところの圧縮室を形成する揺動角度αに等しくとられているか、又は、所望吐出量に適応して拡大された吐出穴が、揺動側スクロール部材の揺動側スクロール歯によって終期圧縮室と吐出穴とが連通しないような揺動側スクロール部材の揺動角度αに等しくとられている」(3頁左下欄9行ないし20行)

(e) 「この揺動角度α=220°においては、各スクロール歯30、31の内端は、切り欠かれて残った小半円弧30’、31’又は半円弧30”、31”の末端において、それぞれ相手側スクロール歯31、30に接しており、終期圧縮室34を密封状態としている。また、35は吐出穴32に連通した圧縮室であり、終期圧縮室34も所定の揺動角度α=220°を越えると共に、各スクロール歯30、31の先端が相手側スクロール歯31、30と離れて、吐出穴32に連通する圧縮室35になる」(4頁左上欄8行ないし19行)

(f) 「この吐出穴32は、揺動角度α=220°においては、揺動スクロール歯31によって終期圧縮室34に連通しない範囲で拡大されており、スクロール歯の歯厚と同値の直径以下に限定されていた従来の吐出穴に比べて、著しく拡大されている。なお、更に大きな吐出穴を必要とする場合には、圧縮比の低下を我慢する」(4頁左上欄20行ないし右上欄6行)

(g) 「本発明によるならば、所望の圧縮比となる圧縮室容積を形成する揺動角度α、又は、終期圧縮室34と吐出穴32とが連通しないような揺動角度αと同一角度θ内の小半円弧30’、31’、又は半円弧30”、31”を残して各スクロール歯30、31の内端を切り欠くことによって、自由に圧縮比を選択し得ることができ、また、大吐出量を確保し得るように吐出穴32を拡大し得て、スクロール歯の巻数又は歯厚を変えることなく、圧縮比や大吐出量をそれぞれ別個に、又は、同時に、自由に選択し得る効果を有している」(4頁左下欄6行ないし17行)

〈3〉 これらの記載によれば、従来のスクロール圧縮機においては、圧縮比は、スクロール歯の巻数によって一義的に決まっているため、例えば、巻数を変化させることなく圧縮比すなわち容積比を変化させることができず、また、吐出穴の閉鎖も、揺動スクロール歯の先端部によってのみ行われるために、吐出穴を、歯厚を直径とする穴以上の大きさとすることができず、吐出量増大をはかることもできなかった。

そこで、引用例記載の発明は、スクロール部材のスクロール歯20の内端側を所定の角度θ(この角度θは、初期圧縮室の容積に対して所望の圧縮比となる終期圧縮室34を形成する揺動側スクロール部材の揺動角度α、または、終期圧縮室と拡大された吐出穴が連通しない揺動側スクロール部材の揺動角度αに等しくとられている。)の範囲の小半円弧21または半円弧22を残して先端を切り欠き、それによって、揺動角度αにおいて、各スクロール歯30、31の内端が、切り欠かれて残った小半円弧30’、31’または半円弧30”、31”の末端において、それぞれ相手側スクロール歯31、30に接して、終期圧縮室34を密封状態にし、スクロール部材が前記揺動角度αを越えると共に、各スクロール歯30、31の先端が相手側スクロール歯31、30と離れて、終期圧縮室34が吐出穴32に連通する圧縮室35に移行するようにしたものである。つまり、引用例記載の発明は、各スクロール歯の先端が相手側スクロール歯から離れ始める直前のスクロール部材の揺動角度αを自由に選択して、終期圧縮室容積を選択して初期圧縮室12の容積に対して所望の圧縮比となるようにするとともに、その選択された揺動角度αだけ揺動した状態における吐出穴に連通する圧縮室35の大きさを変えて、そこに形成される吐出穴を拡大できるようにしたものであると解される。

そうすると、前記「更に大きな吐出穴を必要とする場合には、圧縮比の低下を我慢する」の記載の意味するところは、「大きな吐出穴を必要とする場合には、吐出穴に連通する圧縮室を大きくしなければならず、圧縮室を大きくするためには、スクロール歯の内端側の切欠きの角度θを小さくする、つまり、揺動側スクロール部材の揺動角度αを小さくして、各スクロール歯30、31の先端が相手側スクロール歯31、30と離れるタイミングを早めてやる必要がある、そうすると、初期圧縮室の容積に対する終期圧縮室の圧縮比は小さくならざるを得ないが、それを我慢する」の意であると解される。

そして、前掲甲第3号証を検討しても、引用例には、吐出穴を大きくする構成について、前記のようにスクロール歯の切欠きの角度θまたは揺動側スクロール部材の揺動角度αを適宜選択することによる旨説明されているのみであって、他の記載は認められない。

〈4〉 次に、本願明細書には、本願発明は、前記1〈3〉ないし〈5〉記載のように、吐出孔における冷媒ガスの流通抵抗を小さくするとともに、冷媒ガス吐出後の吐出孔に連通した圧縮空間とこの圧縮空間ととなりあう圧縮空間との圧力バランスを早くとることによって、余分な圧縮作用をなくし、動力損失をなくすことをも目的とし、これを解決する手段として、本願発明における終期圧縮室形成状態の構成を採用し、目的に添った作用効果を奏する旨記載されているのに対し、引用例には、引用例記載の発明は、前記〈2〉(a)の欠点を除去して、同(b)の目的を達成するための構成を採用し、同(g)記載の作用効果を奏する旨記載されているのみで、引用例記載の発明が本願発明の上記目的と同一の目的をもつものであることについての記載も、そのために本願発明と同一の終期圧縮室形成状態の構成を採用し、同一の作用効果を奏する旨の記載の存しない。

〈5〉 これらのことからすると、引用例記載の発明について、その吐出穴が、審決認定のように「吐出穴の拡大程度は、揺動側スクロール歯の外周縁より内側に入り、内周縁より外側に一部出る範囲のもの」であると解する余地はないといわざるを得ない。

〈6〉 なお、被告らは、

(a) 引用例の第7図C及びその説明事項を正しく理解するためには、同図に示すスクロール歯のピッチaと歯厚tとの関係がa=3tであることを前提に考察しなければならない、

(b) 引用例の第7図Cに対応する参考図1Cをみれば、揺動側スクロール歯の先端が旋回運動により固定側スクロール歯と接触が外れる揺動角度220°における終期圧縮室形成状態では、スクロール歯の歯厚と同値以下に限定されていた従来の吐出穴でさえ、揺動側スクロール歯の内周縁より外側に一部出ているし、同図に示される吐出穴は、その直径がスクロール歯の幅(歯厚)より大きく構成されているのであるから、吐出穴は、スクロール歯の外周縁より内側に入り、かつ内周縁より外側に一部出る構成とならざるを得ない、

(c) スクロール圧縮機の終期圧縮室形成状態において、吐出穴が揺動側スクロール歯の外周縁より内側に入り、かつ、内周縁より外側に一部出る構成は、a=3t、θ=220°のスクロール圧縮機に限って当てはまるのではなく、a=5tで、切欠き角度θが270°、220°、180°である各スクロール圧縮機にも当てはまる、それぞれについて図示すると参考図2ないし4のとおりであり、従来の吐出穴でさえ、スクロール歯の外周縁より内側に入り、かつ、内周縁より外側に一部出る構成とならざるを得ないか、または、拡大吐出穴が揺動スクロール歯の内周縁に接する程度まで拡大されたものに限られ前記構成のものは含まないとする理由を引用例の記載中に見いだすことはできない、旨主張している。

しかしながら、前掲甲第3号証によれば、引用例には、スクロール歯のピッチaと歯厚tの記載は認められるものの、両者の関係についての記載は一切なく、示唆されてもいない。被告は、引用例の第5図は、a=3tの関係を正確に図示していると主張するが、願書に添付された図面は、当該発明の技術内容を具体的に表現しているものであるが、発明の構成を理解し易くするための補助的作用を営むにすぎず、設計図面のような正確性を要求されるものではない。しかも、引用例の第7図を見ると、a=5tの関係にあるように理解されることは、被告も認めるところであり、引用例に接する当業者が、両者の関係について、明細書には何らの記載も存しないにもかかわらず、第5図のみに依拠して、両者はa=3tの関係にあることを前提として引用例記載の発明を理解するということはできない。

したがって、引用例の第5図等に図示されたスクロール歯のピッチと歯厚が、被告の主張するようにa=3tの関係で作図されているとしても、引用例には、スクロール歯のピッチaと歯厚tとの関係について何も説明されていないのであるから、該図示だけを根拠に引用例記載の発明のものがa=3tの関係にあると断定することはできない。

また、引用例の記載中に、拡大吐出穴が揺動スクロール歯の内周縁に接する程度まで拡大されたものに限られ前記構成のものは含まないとする理由を見いだすことはできない、との被告らの主張についても、引用例の吐出穴について、審決認定のように、「吐出穴の程度は、揺動スクロール歯の外周縁より内側に入り、内周縁より外側に一部出る範囲のもの」と解すべき余地がない点について既に説示したとおりであって、この主張も失当である。

〈7〉 以上のように、審決の前記認定は誤りであり、引用例記載の発明は、本願発明における終期圧縮室形成状態の構成を有しないものであるところ、審決は、この相違点を看過して本願発明が引用例記載の発明と同一であると誤って判断したものであるから、違法であって、取消を免れない。

第3 よって、原告の本訴請求は理由があるので、これを認容し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条、94条後段を適用して、主文のとおり判決する。

東京高等裁判所第6民事部

裁判長裁判官 竹田稔

裁判官 関野杜滋子

裁判官 田中信義

別紙図面1

〈省略〉

別紙図面2

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別紙図面3

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別紙図面4

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